2月4日(土)

    日本百名山 1964年 新潮社版

 
  エピソード 深田久弥―20「山の文学者―4

       「 日本百名山 」

 日本百名山は、朋文堂発刊の『山と高原』の19593月号「鳥海山・男体山」4月号「蓼科山・石鎚山」5月号「岩木山・開聞岳」・・・と、月2山ずつ掲載され、1963年(昭和38年・60歳)4月号まで50箇月、1回の休載も無く掲載されました。

深田久弥は遅筆で有名だったらしいのですが、大森氏によると日本百名山の執筆にかける深田久弥の情熱は並大抵のものではなかったそうです。当時『岳人』には、ヒマラヤ関係の連載を続けており、この時期の深田久弥の執筆量は凄いものだったと思います。

日本百名山は、1山あたり400字原稿用紙きっかり5枚。選定基準は山の品格、個性そして歴史の有る山。え標高1500mをボーダーラインとしていますが、開聞岳、筑波山の2山は1000mに満たないけれども特別に入れられています。特別に日本人の歴史に深いかかわりの有った山だったからでしょう。

「日本百名山」が連載され始めてから「山と高原」の発行部数が飛躍的増えました。これまで月78000部の発行でしたのに、30000部近くも売れるようになったと云われます。人気が出てきたので原稿用紙5枚だったのを、もっと枚数を増やしたらと、編集の方から願ったところ、「増やすとだれる」と言って断ったそうです。深田の日本百名山にかける情熱がうかがえることと大森氏は語っておられました。

2月3日(金・節分」

     山と高原 誌

 今日は節分です。もう春です?「春は名のみの風の冷たさ・・・」です。今朝は氷点下で、わずかながら雪が道路をおおっています。今冬は日本のあちこちで大雪となって厳しい生活をされている方々も多いと思います。お見舞い申し上げます。幸いに、ここ深田久弥の故郷大聖寺は、これまでせいぜい10cmばかりの積雪があったくらいです。まだ、厳しい季節が続きます。雪も友として暮らしていきたいと思っています。
 深田久弥ぁ久弥の足跡をたどる「エピソード 深田久弥」まだしばらく記します。ご指導の程よろしくお願いいたします。


   エピソード 深田久弥―19「山の文学者―3

        「 日本百名山 」

 深田久弥山の文化館では、一昨年(2010年)81日から1031日まで、日本百名山誕生50年を記念して、石蔵常設会場で「深田久弥と『日本百名山』の誕生」という特別展を行いました。その間95日には、この展示に多くの資料を提供いただいた、当時の山と高原編集者で、百名山の生みの親とも云える『大森久雄氏』より特別講演として[『日本百名山』誕生と深田さんのこと]という演題でお話戴きました。そのご講演から知ることが出来た、日本百名山誕生のエピソードを紹介しましょう。

まず大森氏が、1958年(昭和33年)『別冊 文芸春秋』(第62号、昭和332月発行)に深田久弥が執筆していた「混まない名山」を読んだことから始まりました。あの深田久弥の「百名山を戦前書きかけた」という文章です。それで大森氏は深田が百名山の構想を持っていることを知ったのだそうです。大森氏はすでに、朋文堂がフランス・ラルース社発行の『LA・MONTAGNE』という山の百科事典の翻訳権をとっいて、その翻訳者の一人として深田久弥と面識があったのです。

1958年は深田久弥がヒマラヤ(ジュガール・ヒマール)探査行に行かれた年です。そんなこともあって、大森氏が「日本百名山」執筆を依頼したのはその年の秋になり、連載開始は翌年の19593月でした。

2月2日(木)

 朋文堂「山小屋」1940年

エピソード 深田久弥―18「山の文学者―2

       「 日本百名山 」

 深田久弥の業績で現在最も有名なのは「日本百名山」でしょう。この作品は1959年(昭和34年・56歳)3月号から1963年(昭和38年)4月号まで『山と高原』誌に連載され、19647月新潮社から単行本として刊行、1965年読売文学賞を受賞した作品です。

先に少し記しましたが、日本百名山について深田久弥の著書「混まない名山」で「日本百名山を選んでみようという考えを持ったのは随分前のことである。戦争の始まる頃であろうか。ある雑誌に、自分で撮った拙い写真に説明をつけて百名山を連載しかけたことがあった」と書いています。そう戦前の1940年、雑誌『山小屋』で20山が掲載されているのです。19403月「高千穂峰・乗鞍岳」4月「岩菅山・妙高山」5月「燧ケ岳・至仏山」6月「五竜岳・蓼科山」7月「宝剣岳・高田大岳」8月「白山・会津駒ヶ岳」9月「薬師岳・太郎山」10月「高妻山・霧ヶ峰」11月「赤岳・開聞岳」12月「湯ノ丸山・岩手山」・・・の20山でした。現在読まれている『山と高原』掲載の山々に入っていない山が幾つか有ります。高千穂峰、岩菅山、蓼科山、太郎山、湯の丸山、宝剣岳などです。また八甲田山は高田大岳に、八ヶ岳は赤岳となっています。

深田久弥さんが「自分で撮った拙い写真に説明をつけて」言われるように、400字原稿用紙ぴったり5枚で書かれた山と高原掲載の作品に比べ字数も原稿23枚と短く、「説明」と言われるように完成された文章ではありませんでした。ただ、深田久弥が若い頃から日本百名山の構想をもっていたことがわかります。

2月1日(水)

      わが山山 1934年改造社

エピソード 深田久弥―17「山の文学者―1

先にも記しましたが、戦後の深田久弥は日本の山々はもとより海外(特にヒマラヤ)の山々を現す文章を多く書き続け、まさに山の文学者と呼ばれるにふさわしい仕事をしています。

山の文学・・・深田久弥は、戦前小説家として活躍していたころからも山の文学を書いていました。小説作品の最初の単行本は1933年(昭和8年)刊行の小説集「翌檜(あすなろう)」ですが、翌年1934年には山の紀行文集「わが山々」を改造社から出版しています。

小説とほとんど並行して、山の文学も書いていました。戦前に書かれたものを上げますと、「わが山々」の後1940年「山の幸」と「富士山」が青木書店から、1942年には「山頂山麓」を青木書店から、1944年には「山岳紀行」が新潮社、など多くの作品が刊行されています。後に詳しく記すつもりですが、「日本百名山」も同じタイトルで、雑誌『山小屋』で19403月号から12月号まで20山連載しています。

戦後の深田久弥は、先に記しましたが昭和20年代の作品は少ないのですが、20年代後半からいよいよ山の文学が花開き始めます。1952年「をちこちの山」が山と渓谷社から、1961年「わが愛する山々」が新潮社から、1969年「雪白き山」が二見書房から・・・など多くの作品を残しましたが、当然ながらその双峰は日本百名山とヒマラヤ文学です。

1月30日(月)

      あらうみ

エピソード 深田久弥―16「俳人・九山―4

「はつしほ」は金沢にある「あらうみ」の同門の句会でもあり俳人九山は「あらうみ」とも交流を深めています。当時のあらうみの主宰は、杉原医院の奥様『杉原竹女(ちくじょ)』でした。竹女さんとは志げ子夫人と共に家族ぐるみの付き合いが続き、あらうみの機関紙には、深田久弥の文章が多く掲載されています。

戦前からの高浜虚子とのつながりも続き、特に虚子の高弟で4Sと呼ばれた一人だった『高野素十』とは親しく、素十先生は大聖寺によく訪ねてきました。最近寄贈された寄せ書きの徳利(現在石蔵常設展に展示してあります)には、九山、萬風、青峰、聖城子、竹女・・・と共に素十の名も有りました。

 深田久弥が亡くなって7年後、志げ子夫人により『九山句集』が刊行されました。その感慨を夫人は「遺句集を編みて安堵の春炬燵」と詠んでいます。刊行の数日後、志げ子夫人は「句集完成に安堵」するように、不慮の交通事故で亡くなりました。長男森太郎氏は「母は父のやり残した全てのことをまとめあげました。父が迎えにきたようです」と語られたそうです。

1月29日(日)

 はつしほ 句集

    エピソード 深田久弥―15「俳人・九山―3

 1947年(昭和22年)大聖寺に帰郷した深田久弥は先輩で若い頃の登山の師匠ともいえる先輩の稲坂謙三の離れで3年半すごしています。1948年深田は、大聖寺に有った小さな句会を育て『はつしほ俳句会』とします。初代会長は稲坂謙三でした。山の師匠稲坂謙三は、俳句では深田の弟子となったみたいですね。稲坂謙三の俳号は『萬風』といいました。聞くところによると、バンプウとは英語の竹のことです。竹は藪に有りますので自分を「藪医者」と洒落たそうです。勿論、稲坂先生は近郷に鳴り響く名医でした。まあ、名医だからこそ言えることですが。

「はつしほ」は、最初「初潮」書きましたが、女性の生理と同じようなのでひらがなにしたそうです。「はつしほ」の第一回の句会は、芭蕉と五百羅漢で有名な、大聖寺の山の下寺院群の中に有る『全昌寺』で行われました。ここに、深田久弥の句碑があります。これは、近年有志により建てられたものです。二つの自然石で出来ており右の石には11の句が刻まれ、左の石にはその中の一句「翁忌や師をつぐ故に師を模さず」が刻まれています。刻まれた句は第1回の句会の時に詠まれた句だそうです。
 はつしほ俳句会は九山先生(深田久弥)を慕い、深田久弥が亡くなった後、毎年かかさずに、命日の321日に「九山忌」の句会を行ってきました。「九山忌」には、はつしほ俳句会の会員はもとより、石川県や富山県、福井県のホトトギスの俳人が多く、ここ大聖寺集まります。

1月28日(土)

      龍頭

  エピソード 深田久弥―14「俳人・九山―2

太平洋戦争では深田久弥は1944年応召され小隊長(小尉)として1946年復員するまで中国大陸ですごします。

その出征前の句会で、高浜虚子から「梅凛々九山小尉応召す」「春風の今日鎌倉に吹き満てり」の句が深田におくられました。

戦場は中国大陸の南部「湖南省」でした。19488月号『群像』に掲載された「わが小隊」にはその当時のことが描かれています。それによると俳句を部下に教えたりしています。何時死ぬか分からぬ戦場で、なんと悠長だなと思われますが、深田は「俳句のおかげで帰ってこれた」とも言っています。俳句のおかげで部下を良く統率出来、また俳句を詠むことで戦中や戦後の捕虜生活の厳しさを乗り越えられたのでしょう。

ここで詠まれた句は部下の一人が復員のとき秘かに持ち帰り、落ち付いた頃「龍頭(りゅうとう)」という句集にまとめられました。龍頭は駐屯していた集落『龍頭舗』から付けられた名だそうです。

俳句とは関係ありませんが、戦場での深田久弥のエピソードをひとつ上げます。深田小隊は主に能登、長野、東京出身の人達で構成されていました。そのうち東京出身の部下の方が、何時か山の文化館においでになり、深田さんは命の恩人だと語られました。彼は行軍中身体の具合が悪く倒れたのだそうです。戦場ではそんな時、放置されるか、敵の捕虜とならないよう銃殺されるのだそうです。深田隊長は自ら彼を支え、目的地まで無事連れて行き死を免れたのだそうです。深田の温かい人間味は部下たちに慕われ、さらに俳句のつながりで深められたでしよう。復員後深田は越後湯沢でしばらくくらし、1947年に故郷に帰り、約8年を大聖寺と金沢で過ごしますが、能登の部下たちとは戦後も長く俳句を通じて交流が続くのです。

1月27日(金)

   深田久弥の死後7年後に刊行された
         「 九山句集 」

エピソード 深田久弥―13「俳人・九山―1

 『九山』は深田久弥の俳号です。著書「きたぐに」よれば俳句に興味をもったのは、第一高等学校3年のころだそうです。「アララギ」の中堅だった『柴生田稔』に薦められ『正岡子規』の俳論を読み大いに感動し、俳句をするには古典に通じなければならぬと、芭蕉の句を全部毛筆で淨書したりしました。「艶なるは命薄かりき金魚鉢」などという句も詠みましたが、新思潮の同人になったことがあり、小説の方に力が入り、この時はしばらくで熱がさめたそうです。
 その後鎌倉文士の間に写友会という会出来て、この仲間が俳句を始め深田もこれに加わったものです。九山(きゅうさん)という俳号も文士仲間が親しく「久さん」と呼んでいたことから付けられました。1941年ころのことらしいです。
 「きたぐに」によると1935年ころ『高浜虚子』の娘『星野立子』の主催する「玉藻」に依頼されて随筆を寄稿した縁でホトトギスの句会に出るようになりました。1942年『山田珠樹』邸で行われた虚子主催の句会で「セルとなりショパンのロンドひきにけり」「セル着るや妻の美人でなきぞよき」2句が、虚子の撰に入りました。
 日本俳壇の巨匠、高浜虚子から自作の句を選ばれて、きっと有頂天になったでしょう。
 このときから、再び俳句に情熱を傾けるようになりました。

 

1月26日(木)

   火にも水にも 1956年 角川書店

 エピソード 深田久弥―12「小説家―3

 

北畠は深田と会う前から、当時死の病といわれた「脊椎カリエス」にかかっており、文学青年と文学少女の純真な心だけの結婚だったらしいのですが、深田の異心は北畠を怒らせました。戦後、北畠は戦前の深田の小説作品は皆自分の作品だ・・・と文壇に発表します。これにより深田は文壇から追放されたような立場になるのです。

ただ、これは天の配慮だったかも知れません。深田も北畠も戦後、小説において文壇に認められる作品は有りません。あのまま、二人が二人三脚を続けていけば、やがて二人とも売れない小説家として消えていったでしょう。この非常とも云える運命が二人に真の道を与えるのです。深田はやがて「山の文学者」として活躍し、北畠は「児童文学」に花開くのです。そして、深田の山の文学には志げ子夫人のバックアップが無ければ成らなかったともいわれます。深田久弥は二人の女神にいざなわれた幸福な文学者と云う研究家もいました。勿論その女神が慕う深田久弥の大いなる魅力を忘れてはなりません。

そして、深田久弥の小説は、後の山の文学への基礎となるものだったと筆者は思うのです。深田の山の文学は小説家として培われたものがあってこそ、あの拡張高い作品になったのです。

 

1月25日(水)

   紫匂ふ 1941年 改造社

エピソード 深田久弥―11「小説家―2

戦前小説家として活躍した深田久弥ですが、1944年(昭和19年・42歳)戦地に赴き、1946年(昭和21年)復員してから後、評価を受ける小説作品は有りません。戦後の単行本になった小説は1956年(昭和31年・53歳)の「火にも水にも・角川書店」があるばかりです。小説に限らず彼の作品は昭和20年代非常に少ないです。これには訳があります。最初の妻『北畠八穂』について記さねばなりません。

1928年(昭和3年)改造社では一般の懸賞募集を行います。この募集に青森県の『北畠美代(八穂)』が応募してきます。この作品「津軽林檎」は選に入りませんが、深田はこの中に才能を感じ文通を始め、1929年(昭和4年)「千葉県・安孫子」で同棲生活を始めます。彼の最初に文壇から注目を得た『津軽の野面』や『オロッコの娘』など初期の作品は、北畠八穂の書いたものを深田久弥が手直ししたものだったのです。戦前の小説の総てが八穂の手によるものではありませんが、かなりの作品が夫婦合作と云われます。

二人が夫婦でいれば誰も気づかれなくすんだでしょうが、1941年深田は、一高時代遠くから眺めていただけの初恋の人『木庭志げ子』に、彼女の弟『中村光夫』の結婚式で運命的に出会ったことから北畠との破綻が起こります。

 

1月23日(月)

『津軽の野面』1935年作品社から他の幾篇も
含め刊行。
写真は1936年刊行された有光社版初版本

 山の文化館常設展・展示

エピソード 深田久弥ー10「小説家―1

時代を戻ります。深田久弥はまず小説家です。もともと家業を継がず家を出たのも文学への志があったからです。小学校時代に少年雑誌(文教社・小学生)に投稿したりしています。福井中学時代には、同じように文学を志す『中野重治』とも交流し、第一高等学校時代には、1925年(大正14年)中野重治らの同人誌『裸象』に参加しています。

1927年(昭和2年・帝大在学中)第九次新思潮で文学活動を盛んに行い、10月帝大在籍のまま『改造社』の編集部に入いります。

この年、11月『新思潮』に『津軽の野面』を発表し、文壇から評価を受けます。次の年193010月『文藝春秋』に『オロッコの娘』を発表し文壇から高く評価を受け小説家としてスタートします。

1933年(昭和8年・30歳)『あすなろう』。1935年『青猪』。19361937年『鎌倉夫人』『知と愛』1940年『翼ある花』1941年『紫匂ふ』1942年『紫陽花姫』『命短し』など次々に発表し文壇で確固たる地位を築くのです。

1933年(昭和8年)から1944年まで鎌倉で過ごし、鎌倉文士として井伏鱒ニ、林芙美子、堀辰雄、今日出海、永井龍男、小林秀雄、坪田譲治、横光利一、川端康成、大仏次郎など多くの文学者と交流を深めます。先の登山家編でも記しましたが、小林秀雄、今日出海などとは文学だけでなく登山も一緒に行ったりしていました。

1月22日(日)

  1964年 国師岳にて 深田久弥

エピソード 深田久弥ー9「登山家ー8」

登山家としての深田久弥は1935年(昭和10年)に日本山岳会に入会し、晩年の1960年(昭和35年)には日本山岳会の評議員、1963年(昭和38年)には理事、1968年(43年)には副会長に就任し、その間海外連絡委員、自然保護委員、図書委員、自然公園審議会委員などを歴任し日本の登山界に貢献しています。

深田久弥の登山は、いわゆるヨーロッパアルピニズムとは次元の違うものでした。

山の文化館館長の高田宏さんは、深田と同じ大聖寺で少年時代を過ごしていますが、中学生のころ、大聖寺で深田久弥の講演会がありそこで会ったのが最初だそうです。丁度古橋広之進が「ふじやまの飛魚」として活躍していた頃でした。戦後の日本に明るい話題であり、日本の星でした。ところがその講演のなかで深田久弥はその活躍に水をさすように「身体だけを鍛えてもだめだ、精神を鍛えなければならない」と言ったのだそうです。高田宏さんはこの言葉で深田久弥を好きになったそうで、その後長く続く交際の原点でした。のちに高田さんが「エナジー」の編集長時代「登山とスポーツ」という企画で深田久弥に参加してもらったのですが深田は「登山はスポーツではない」と言い切ったそうです。

登山は、大いなる精神、大自然に身をゆだね、精神を解き放つものだとも語ったそうです。

「若者よ冒険的であれ」「我道の長く険しきを愛す」「暮らしは低く志しは高く」「百の頂に百の喜びあり」・・・などは深田久弥がよく色紙に書いた文言ですが、彼の登山への心が見えるようです。また、深田久弥のジュガール・ヒマールの報告書「氷河への旅」の巻頭には「未知を求めて遠く旅する者に、神はそのパラダイスを開く」・・・と書かれています。これはコーランの中にある言葉ですが、ここにも深田の登山への姿勢が感じられます。

1月21日(土)

    深田久弥著 ヒマラヤの高峰
岳人に連載されていましたが、1664年第一刊、、1965年第五巻、1966年別冊写真集が『雪華社』から刊行されました。世界に誇るヒマラヤ研究書と云われます。
   エピソード 深田久弥「-8「登山家ー7」
      
「 ヒマラヤ 」

 深田久弥のジュガール・ヒマールの後、日本のすざましい経済成長もあり、ヒマラヤに行くパーテーも増えてゆきました。
 まだ、情報の少ない時代でしたので、ヒマラヤ研究書の書き手であり、ヒマラヤ経験者であり、何よりも国内随一といわれる海外の登山と探検に関する文献の持ち主である深田久弥の元に、多くのヒマラヤを目指す人達が訪れるようになりました。
 その人達を、深田久弥は暖かく迎え、知る限りの情報を伝え続けたのでした。
 ヒマラヤ関係者が来ると、奥さんに酒をもってこさせ、昼日中からヒマラヤ談議に盛り上がる・・・ということが始終あり、ますます人気が出て、深田久弥の収集した文献の書庫『九山山房』は「ヒマラヤ登山の梁山泊」とか呼ばれ、「九山山房詣で」とか「松原(住いの世田谷区松原)詣で」とかいう言葉が山岳界でいわれ、ヒマラヤへ行く者はまず深田久弥を訪ねるということが普通となっていました。
 昨秋、当館主催で大聖寺に講演にお出でになった1975年にエベレスト女性世界初登頂の田部井淳子さんも、始めてのヒマラヤ1970年のアンナプルナⅢに向うときは深田久弥の元を訪ね、お世話になったと語られていました。1971年深田久弥の亡くなる近前のころです。
 日本の海外登山黎明期において深田久弥の果たした功績は高く評価され、晩年『日本山岳会・副会長』に推薦されたのも、このヒマラヤに関する功績により推薦されたといわれます。
1月20日(金)

    
 震災の気仙沼 
  2011年12月 大庭保夫氏撮影
            お知らせ

 聴山房企画展、明日1月21日より、当山の文化館の運営委員のお一人大庭保夫氏撮影の東北大震災の傷痕 三陸被災地の今」が開催されます。
 大庭保夫氏は先月クリスマスの頃、奥様と共に「訪ねるだけでも支援です」という現地の知人の方の案内で、三陸海岸の気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、大槌、山田・・・などを訪問してきました。そのとき撮影した生々しい写真を、石川県の方々に見ていただきたくて・・・と展示されました。ぜひお出でいただきご覧下さい。 期日は・・・1月21日~2月12日・・・です。

 明後日1月22日PM1:30~3:00 聞こう会が2階談話室で行われます。今回の後援者は、当館副館長の荒井喜市氏です。演題は「ふるさとの山はありがたきかな」です。若い頃から登山をされてきた氏の経験豊かな山々のお話し、御期待下さい。

 写真展、聞こう会とも無料ですので、お気軽にお出で下さい。


「連載のエピソード深田久弥は今日は休みます」
1月19日(木)

 ジュガール・ヒマール探査行の
深田久弥の著書
雲の上の道」表紙
   エピソード 深田久弥ー7「登山家-6」
           「 ヒマラヤ 」

 2月28日、東京を特急「つばめ」で出発。3月2日、神戸を「サンゴラ丸」に乗船、3月26日インドのカルカッタに到着。陸路(主に列車)で4月13日ネパールのカトマンズに着き。4月17日にキャラバン開始。ジュガール谷に向う。4月27日ベース・キャンプ(BC)。・・・5月6日キャンプ1(C1)。・・・5月10日C2。・・・5月12日C3.・・・5月16日C3撤退。・・・5月23日BC撤退。・・・6月3日ガンジャ・ら(ガンジャ峠)を越え「ランタン谷」に入り、カトマンズに向け下り、・・・6月11日カトマンズに着く。6月17日飛行機でrカトマンズを離れ、インド経由で飛び・・・6月27日に東京に帰る。・・・という行程をの遠征でした。
 深田久弥が「ヒマラヤン・クヮルケット」と称した小さな隊は、日本における「ライト・エクスペデイション」の草分けとなったのです。
 「50万円ヒマラヤ登山説」なる言葉も出来、これまでの大スポンサーのついた登山隊だけでなく、ごく普通の人達もヒマラヤの山々に行けるという、現実的な夢を抱かせたのでした。

 注・・・「一人50万円でヒマラヤに行ける」と云っても当時としては大金でした。そのころ筆者は社会人となっていましたが、1年間の給料が5~6万円でした。10年飲まず食わずでやっと出来る金額です。ただ、深田久弥の探査行は4カ月と長いもので現在のヒマラヤ・トレッキングとは比べられませんが、現在では給料の半月くらいでヒマラヤに行けます。良い時代になったものですね。

 ただ、深田久弥のジュガール・ヒマールはまだ探検の時代でした。現在のヒマラヤ・トレッキングは登山の知識も技術もほとんどいらない観光旅行です。全てに比べものにならない世界でもあります。
1月18日(水)

 ビックホワイト・ピーク (7083m)
  深田久弥著 氷河への旅・・・より

 エピソード 深田久弥ー6「登山家ー5」
          「 ヒマラヤ 」

 1958年のこのジュガール・ヒマール行きは、凄いエクスベイションでした。とにかく計画から出発まで、2か月にも満たなかったのです。当時海外登山は2~3年計画でした。勿論深田久弥はかねてから秘かに計画を練っていたでしょうが、それは夢のようなものだったでしょう。1957年の年末に朝日新聞の記者が、正月向けのパッとした記事がないかと訪ねて来て、深田のそんな夢に盛り上がったのですが、明くる正月の新聞に「深田久弥一行ヒマラヤへ・・・」の記事が載ってしまったのです。
 載った以上後へ引くわけにいかない・・・と計画が進められたのですが・・・・これを『日本山岳会』に持ち込んだら、前々年のマナスルの経験もある会員からクレームがついたのです。ひどくずさんな計画だったようです。ただ、ここに深田久弥の温顔に象徴される彼らしいところですが、さんざん非難した彼等がこの計画を応援するようになるのです。それに、たぶん彼が第一高等学校・東京帝国大学系譜だったことも幸いしたでしょう。
55歳という年齢です。彼の御学友?も財界、政界、官界の中枢にいて、バックから支援してくれたのでした。当時海外に出るのは非常に難しい時代でした。外貨もなかなか出ません。たった2カ月間で、出発出来たのは、まさに深田久弥の仁徳の表れだったと云えるかも知れません。ただ、ネパール政府から比較的簡単(でもないですね)に許可が下りたのは、登頂を目的としていなかったからかも知れません。深田久弥の著書「氷河への旅」や「雲の上の道」には、登頂を目指す文言はまったく有りません。
 かくして、2月4日渡航審議会をパス。2月28日・・・東京を汽車で出発し・・・3月2日神戸を船で出発します。
 写真・ジュガール・ヒマール主峰ビックホワイト・ピーク


明日へ続く・・・・・
1月16日(月)

  1958年 ジュガ-ルヒマールの隊員
   エピソード 深田久弥-5「登山家ー4」
               「 ヒマラヤ-1 」

 深田久弥といえば「日本百名山」ですね。ただ、彼を語るには「ヒマラヤ」を忘れてはなりません。深田久弥は昭和30年代から亡くなられる頃まで、日本におけるヒマラヤ研究の第一人者呼ばれていました。多くのヒマラヤの著書を書き、自らもまだ探検の時代であったヒマラヤに行き、更に後にヒマラヤを目指す人々へのアドバイザー的存在になり、日本の海外登山に大きな功績を残したといわれます。
 深田久弥のヒマラヤへの夢は戦前から始まります。妻に「いずれはヒマラヤに行くので貯金をしておいてくれ」と云っていたそうです。
 1952年(昭和27年)深田久弥は山形県鳥海山で行われていた国民体育大会の、石川県山岳競技の監督として参加します。ここで、当時日本で世界の山のことに最も精通していたという『諏訪多栄蔵』と会います。諏訪多とヒマラヤについて語り合い意気投合するのですが、その後諏訪多は世界の山々の情報を伝え続けると共に、後に日本最大級と云われた深田久弥の海外山岳文献の収集に協力し続けるのです。
 諏訪多の進めもあり深田久弥は1953年から『岳人』に『卓上ヒマラヤ小話』を連載しはじめ、1956年、それをまとめた『ヒマラヤ山と人』が発刊されます。おりしもその年、日本が国をあげ取り組んできた8000m峰『マナスル』が日本隊により登頂されます。
 これによりヒマラヤブームが沸き起こり、深田久弥のヒマラヤの著書が世間の注目を集めてゆきました。1958(昭和33年)深田久弥は3人の仲間と共に、いよいよヒマラに向います。メンバーは写真向って右より、写真家『風見武秀』『深田久弥』画家『山川勇一郎』医師『古原和美』です。・・・次回に続く。

1月15日(日)

 富士山7合目からスキー滑降の深田久弥
    エピソード 深田久弥ー4「登山家-3」

1929年(昭和4年)新思潮に発表の「津軽の野面」1930年文藝春秋に発表の「オロッコの娘」などで深田久弥は小説家として活躍するようになるのですが、そのころの登山には文士仲間が登場するようになります。よく山に登った仲間には『小林秀雄』『今日出海』などの人々がいます。
 また、山岳展望の熱も高まり、「三越」の屋上からの山々の展望を愉しむのが趣味ともなっていたらしいです。
 文士仲間の『井伏鱒二』は「山の話になるとすぐ熱狂して、感激そのものの話し振りで・・・三越の屋上から見える山の名前や形をみな暗記している」といっていたそうです。また深田久弥が来ると「又、山の鬼をしょってきたな」と文士仲間はやゆしたそうですが、モヤシのような人が多い作家達の中で、健康で豪快な深田久弥は特異な存在だったでしょう。ただ、それゆえに皆から愛されてもいました。
 一高旅行部のOBの会『アザラシ会』の仲間達ともよく山に行っていました。写真は1935年(昭和10年)アザラシ会の仲間と富士山7合目からスキー滑降したときの深田久弥です。あまり知られていませんが深田久弥は1939年(昭和14年)3月2日、富士山山頂(剣ヶ峰)から、広瀬潔という方と共にスキー滑降を成功させています。そのときガイドをした『小見山正』は、『新田次郎』の「強力伝」のモデルです。今とは比べ物にならないスキーで氷の斜面を滑り降りた深田久弥の冒険的登山に脱帽です。
 
1月14日(土)

 茅ヶ岳より望む 「八ヶ岳」
  エピソード 深田久弥ー3「登山家ー2」
         


 1922年(大正11年)19歳の深田久弥は第一高等学校に入学します。
 これから深田久弥の日本全国の山々への登山が始まります。
 最初の登山は燕岳から常念岳そして槍ヶ岳への縦走でした。一高旅行部のパーテーでの山行きでした。旅行部とは現在の感じでは、乗り物に乗っての旅でしょうが、このころ何故か高等学校の山岳部は「旅行部」といっていたらしいですね。金沢大学の前身である「四高」の山岳部も確か「旅行部」といっていたような気がします。
 この年の夏は浅間山、秋には秩父山塊に行きました。また、旅行部の先輩『浜田(田辺)和雄』から山岳展望熱を教え込まれたそうです。
 次の年1923年には関温泉へスキーに行っています。1911年1月レルヒが越後高田でスキーを伝えてから僅か12年後のことでした。
 このようにして深田久弥は、まずは一高の旅行部の仲間と登山を続けました。
 ただ、悲しい出来事もあります。
 1926年(大正15年)5月、東京帝国大学入学の年です。深田久弥は後輩の一高生2人と共に八ヶ岳に向いました。そのメンバーの一人『吉村恭一』が硫黄岳で滑落死したのです。深田久弥の生涯の中で只一つの死亡遭難でした。
 深田久弥の文章などから想像しますと、危険で厳しい登山は無かったように見られますが、「青年よ冒険的であれ」などとも色紙に書いたこともあったように、冒険的な登山も多かったと思われます。現在ではほとんどが登山路が有り登りやすくなっている「日本百名山」の山々の多く、例えば雨飾山や平ヶ岳でさえ、深田久弥の登った頃は登山路が無く、探検の要素が強い山だったと云えます。
 
1月13日(金)

    雪化粧の富士写ヶ岳 
  エピソード 深田久弥ー2「登山家ー1」


 深田久弥さん11歳のころでした。当時大聖寺出身の中学生、高等学校生により結成された『大聖寺学生会』があり、その会の行事として「富士写ヶ岳」の登山がおこなわれました。久弥さんは小学生ながら誘われてその登山に参加しました。久弥さんは先にも記しましたが、ひ弱な優等生ではなく、活発な子どもでした。
 登山は山中温泉まで電車で行き、ここから歩き富士写ヶ岳に登り、山中温泉まで帰り、小学生は電車で帰り、学生会の人は更に大聖寺まで歩く・・・というものでした。
 少年深田久弥は、「僕はまだまだ体力が有る、先輩と大聖寺まで歩く」と云ってきかなかったのだそうで、先輩からは「坊は強いな」と誉められたそうです。 後に久弥さんは、その誉められたことが登山の世界に入るきっかけだったと語られていたそうです。
 富士写ヶ岳は大聖寺川の上流に立つ、941.9mの山です。春にはシャクナゲ(ホンシャクナゲ)が多く咲く山として有名です。
 深田久弥さんの登山開眼の山ともいえます。
 深田久弥さんは、福井中学時代、当然大聖寺学生会の会員として、学生会の仲間と大日山を中心としたふるさと江沼の山々や福井県の山々を登っています。白山にも中学時代に2回も登り、着々と登山家への道を歩きはじめていました。
1月12日(木)

       2歳 深田久弥
           エピソード 深田久弥ー1「生誕」

 本年も12日が過ぎました。さて、今日から深田久弥について記したいとおもいます。まあ、伝記なんて堅苦しいものではありません。いちおう時系列的には書きますが、あっちこっち飛ぶとともあります。山の文化館のニュースの無い時の間にシリーズとして連載したいと思います。

 さて、深田久弥は明治36年3月11日、当時の石川県江沼郡大聖寺中町(現加賀市大聖寺中町)で紙と印刷業をされていた深田弥一、とめの長男として生まれました。
 深田久弥は「京逵幼稚園」「錦城小学校」へと進み学業を積みました。少年深田久弥はひじょうに勉強が出来る子でした。当時の成績表を見ますとほとんど8や9でした。普通成績表には1や10は付けないものですが、10が2科目もあります。しかしか細い秀才ではなく活発な子どもでした。
 小学時代から文学にあこがれてもいました。ただ、長男でしたので家業を継ぐか悩みました。彼は家業を継ぐべく高等科に入りますが、やはり更なる勉強をしたいと思い高等科1年で福井中学(現藤島高校)に入りました。
 当時大聖寺には、女学校は有りましたが中学は無く、母のふるさとが福井市でしたので福井中学を選んだのでした。ここで『中野重治』とも交流します。
 福井中学卒業後、父の意向で『第四高等学校』を受験しますが、失敗します。深田久弥は、中学へ1年遅れて入り、高等学校も1年遅れと、後にも記しますが、高等学校も1年長く在籍し、実に足踏みの多い人生を始めています。
 ただ、深田久弥は、この四高受験失敗とその後1年間が、自分の人生に有益だったと語られていたそうです。深田久弥は、次の年第一高等学校を受験し、見事合格します。第一高等学校受験には、父の友人の『実性院』の住職さんの紹介で、福井県に有る、曹洞宗大本山の『永平寺』に3カ月も籠り、受験勉強と修行をされたそうです。
 

 
1月11日(水)

      大土集落 2012.1.10 
            雪の山村

 昨日は山の文化館の休館日でしたので、最近「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された、加賀市東谷地区に行ってきました。
 東谷地区は加賀市の中心部から南東の動橋川流域にある地域です。4年余り前の加賀、山中合併前は江沼郡山中町でした。
 40年余り前の加賀市が出来る前は「東谷奥村」と呼ばれていた地域です。「荒谷」「今立」「大土」それから大聖寺川流域の「杉の水」「市の谷」などの集落からなっていました。
 昨日は、天気予報が「曇り」と報じられていましたので荒谷、今立の集落を撮影に行きましたが、撮影中、加賀市観光交流機構のOさんに会い、冬季は人が住んでいない大土集落までの道路が除雪されているという情報を戴き、今立集落から約5Kmの大土まで自動車を走らせました。
 大土集落あたりの積雪は50cm前後と例年より少ないそうです。大土集落に付いたら、何と太陽も出てきました。輝く陽に向けて逆光でシャッターを切りました。

 重要伝統的建造物群保存地区・・・に選ばれ、これを残してゆくことは大事ですが、ここに豊かに多くの人が住めるようにな社会のなることを祈ります。
1月9日(月・成人の日)

  1月8日 本光寺山門より望む白山
          久方に白山を拝む

 年が明けてからすっきりと晴れた日は少なかったですね。昨日、午後になり雲が切れ遥かに白山の姿を拝むことができました。
 写真は、午後4時すぎ、深田久弥さんのお墓の有る『本光寺』の山門から撮影したものです。久弥さんのお墓が出来た頃と違って、大聖寺の駅前にビルが立ち並び景観はいまいちと思われますが、神聖で厳かな白山の姿は同じですね。

 さて、今日は成人の日だそうです。筆者の成人した頃は1月15日だったようですが、いつの間にかこんな日になったのでしょうか?しかし、とにかく、ご成人おめでとう御座います。白山のように無垢な精神で人生をお送りなされることをお祈りいたします。
1月5日(木)

     新しい展示
           新展示のお知らせ

 新春第一弾の新展示です。
 深田久弥さんは『九山(きゅうさん)』いう俳号を持つ俳人でした。戦前鎌倉在住の時代『高浜虚子』から俳句を習得したホトトギスの俳人でしたが、昭和23年、大聖寺で『はつしほ俳句会』を発足させました。

 さて新展示は、はつしほ俳句会の俳友の寄せ書きがある「徳利」です。
 昭和乙未滴・・・と有りますから昭和30年(1955年)に書かれたものですね。
 書かれた方々は、素十、聖城子、青峰、九山、竹女・・・など19名です。
 素十は高野素十(たかのすじゅう)さんです。高浜虚子の4人の高弟は4Sと呼ばれ、素十さんはそのお一人です。深田久弥さんと交流が深く何度も大聖寺に来ています。
 聖城子は市原聖城子(いちはらせいじょうし)さん、青峰は中村青峰(なかむらせいほう)さん、九山は深田久弥さん、竹女は金沢にあった『あらうみ』の主宰であり、ホトトギスの同人であった杉原竹女(すぎはらちくじょ)さんです。

 昭和30年といえば、深田久弥さんが金沢から東京に移られた年ですね。そんなことを記念した「句会」だったのでしょうか?その会で記念に作られた徳利と思われますね。はつしほ俳句会の初代会長の稲坂謙三氏の子息稲坂暢氏から寄贈されました。

 ぜひ皆さん、山の文化館のお出でいただきご覧下さい。
2012年1月2日(月)

 1月1日 菅生石部神社参拝
          明けましておめでとう御座います

 2012年、平成24年、新しい年の始まりです。
 昨日、ここ大聖寺町に有る、最も古く格式のある『菅生石部神社』に初詣しました。写真のように多くの参拝者が訪れ、長蛇の列で、参拝までに30分もかかりました。
 この神社は、1300年前、天武天皇の御世から始まったと云われる由緒ある神社です。昭和20年までは、「国弊小社」と云い、石川県では3番目の格式でした。毎年2月10日に行われる「御願神事」は「竹割り祭り」とも呼ばれ有名です。
 昔、この神社の奥に大蛇が凄みつき村や田畑を荒らしまわりました。そのため毎年娘が一人生贄にされていました。あるとき旅の武芸者が訪れこのことを知り、村の若者と共に、大蛇をおびき出し、出てきたところを青竹で叩き退治し大聖寺川に投げ込んだ・・・という古事からの神事です。

 さて、深田久弥山の文化館も本年12月で10周年を迎えます。多くの素晴らしい企画をしています。皆さん、応援お願いいたします。
12月29日(木)

   深田久弥山の文化館
       もうすぐお正月

 早いものです。この間「明けましておめでとうございます」・・・といっていたと思うのに、1年が矢のように過ぎて行き、今はもう年の瀬ですね。
 早いと云いながら、今年、日本列島は未曽有の大災害に見舞われ、大変な年でもありました。今も厳しい生活をされている方々も多いと思います。お見舞い申しあげます。頑張って下さいと云うばかりです。
 ここ山の文化館は、それなりに充実した1年でした。深田久弥さんの没40年の節目の年でした。春には亡くなられた「茅ヶ岳」の記念登山もいたしました。
 その、記念事業として『田部井淳子氏』をお迎えし、記念講演会も開催できました。
 今月、23日には、開館9年も迎えることができました。
 来年度は、開館10年、再来年の3月11日は、深田久弥さんの生誕110年・・・もひかえています。
 館の活動の充実をはかりながら、スタッフ一同頑張って行きます。
 皆様、本年中ほんとに有難うございました。来年も宜しくお願いいたします。
 写真・・・先だって『M氏』より門松を設置していただきました。毎年ボランティアで作って下さっています。有難うございます。お正月の用意ととのいました。
12月24日(土)

 小松市木場町より望む富士写ヶ岳
        雪景色

 しばらくブログを休んでいました。お早うございます。
 冬型気圧配置で、うっすらと雪が降りました。筆者は昨夜、小松市に在る、KKコマツの保養施設「松風荘」に泊りました。朝起きたら、写真のようにうっすらの雪が樹の梢に付いていました。その向こうに、深田久弥さんが11歳のとき、生まれて初めての登山・・・の山「富士写ヶ岳」が純白の衣をまとい、スックと立っていました。山頂では50cm以上の積雪でしょうか・・・いよいよ冬山のシーズン到来ですね。
12月19日(月)

   ライチョウのお話し、スライドのひとこま
        報告とお知らせ

 昨日、待ちかねていました白山自然保護センターの上馬康生氏の講演「ライチョウから白山の自然を考える」が行われました。
 長年、白山の自然にかかわってこられた上馬氏の素晴らしいお話しでした。2年前見つかった白山のライチョウのことを中心に、昔から伝えられてきた白山のライチョウのことから、近年から現在にいたる白山のライチョウ。その学術的見地からの詳しい内容を、誰でもわかるようにやさしくお話しされました。また、現在から将来にわたる白山の自然環境についても語られました。有難うございました。

 さて、次回の聞こう会は、来年1月22日です。深田久弥山の文化館副館長の荒井喜市さんによる、演題「ふるさとの山はありがたきかな」です。ご期待下さい。   
12月17日(土)

    初積雪
        雪の季節 来たり

 いよいよ雪の季節ですね。山の文化館の前庭のウッドデッキの上が、うっすらと雪に覆われていました。
 今夜は、深田久弥を愛する会の年次晩餐会「茜の会」です。「茜の会」に出席のため、愛する会会長の高田宏さんも大聖寺に着いておられます。
 雪大好き人間の高田宏先生がお出でになるので、天も大歓迎なのでしょうね。近山も雪化粧しています。いよいよ雪山の季節です。

 明日、12月18日、PM1:30~3:00
 お待ちかねの「聞こう会」。白山自然保護センターの『上馬康生氏』のお話しです。演題も今話題のライチョウを中心で「ライチョウから白山の自然を考える」です。参加は無料ですので、皆さんお誘い合わせのうえお気軽にお出でください。
12月16日(金)

   新展示 昭和22年 深田久弥書簡
      お知らせ

 今日、石蔵展示の「登山家コーナー」の一部展示変えをいたしました。先日、深田久弥さんの第一高等学校時代からの友人のY氏にあてた、ちょっと珍しい、昭和22年新潟県在住時代の深田久弥久弥さんの書簡が、Y氏のご家族から寄贈されさっそく展示いたしました。文面からは執筆より山の方に心が引かれている様子がうかがえます。ぜひ新しい展示観においで下さい。

 さて、明後日12月18日PM1:30~3:00聞こう会が山の文化館の2階談話室で行われます。講師は白山自然保護センターの上馬康生氏で、演題は「ライチョウから白山の自然を考える」です。いま、話題になっている白山のライチョウの話もたっぷりお話しされると思います。ご期待下さい。
12月14日(水)

   白山を望む(加賀中央公園より) 
       冬空に立つ

 昨日、今日と素晴らしい天気です。加賀中央公園より白山を仰ぎました。公園のお城の上から、江沼平野を手前にカメラを向けました。この間までわずかに黒いところが見られましたが、まっ白な雪に包まれ、正に白山です。神々しい「しらやま」です。
 遠い太古の昔から、私達の祖先は、この姿を仰ぎ、神の心を感じたのでしょうね。
 白山は水の神でもあります。田園の稲(米)を育てる水の恵をもたらす神の山でした。そして、白く高く立つ、その姿の美しさにも畏敬の念を抱いたでしょう。
 科学技術の発達した現在の私達でも、この山を望むと、知らず知らず手を合わしたくなります。
 深田久弥も幼少からこの山を眺め、この山の心を胸に、偉大なる登山家に、そして山の文学者になっていったと云われます。深田久弥を育てた・・・そして、この地の多くの人々の心の支えであろう「白山」。いつまで眺めていても飽きない美しさです。
12月12日(月)

       屋外の大掃除
        年の瀬に向けて

 樹々の葉も、もうすっかり落ちて冬支度です。山の文化館では、昨日の日曜日、深田久弥を愛する会のメンバーが、庭の清掃をいたしました。
 小雨がぱらつく日でしたので、高い屋根は滑って危険ですので、低い屋根と、床面を掃除しました。
 もう、半月余りでお正月ですね。
 
12月9日(金)

    初雪
         いよいよ冬です

 今朝、金沢で「初雪」が観測されたとテレビで放映されていました。
 例年より遅いような気がします。とにかく初雪です。
 筆者の家や深田久弥山の文化館の屋根には、まだ積雪は有りませんでしたが、写真のように駐車場に昨夜から停められていた自動車の上に、わずかな積雪が有りました。
 初雪が遅いと大雪になるとか云います。今冬はどうでしょうか?まあ、雪の無いのは淋しいです。スキー場なんか困ります。でも、いつかの・・・S38年やS56年の冬の様にスキー場にも行けないくらい降るのは困りますね。このごろ何でも異常がはやっています。とにかく普通の冬をお願いします。
12月7日(水)

    中央公園 お城と落葉
         落葉

 山の文化館の公孫樹などの落葉樹の葉もほとんど落ちました。
 昨日「加賀市中央公園」に行きました。ここも一部の樹々は葉をつけていましたが、コナラなどの樹々はすべて葉を落とし、写真のように芝生の上に散らばっていました。冬を迎えるほんのひと時の・・・これも美しいものですね。日本人の心の侘びがここにも有りますね。
12月3日(土)

    もみじ・・・散る
         冬の準備

 昨日、絨毯のように敷き詰めていたイチョウの葉をすべて掃きました。今日は雨、美しく掃かれた苔の上に、こんどはモミジの葉がおちていました。真っ赤な葉の色が雨にぬれて鮮やかです。やがて、イチョウもモミジもすべて落ち、本格的な冬になるのですね。
 昨日、近山を眺めると、1000m位の高さの山も、うっすらと雪化粧をしていました。
 カンジキを履いて、あの山々に行きたいですね。
12月1日(木)

すっかり葉を落とした大公孫樹
         師走

 今日はもう12月ですね。驚きますね。あっという間に一年も1ヶ月になりました。今日は物凄い北西の風です。気温もぐっと低くなり、今にも雪が降りそうな感じです。
 写真のように、山の文化館の大公孫樹もすっかり葉を落とし、冬バージョンです。
 まだ、下にはまっ黄色なハッパを敷き詰めています。寒い中ですが、紅葉の終わりを観に来て下さい。
11月30日(水)

     夕日の紅葉 加賀中央公園
         秋 輝く

 昨日は、山の文化館の休館日でしたので、加賀市中央公園へウオーキングに行きました。ほとんどの木々は葉を落としていましたが、カエデの仲間やメタセコイアなどが赤や黄に色づいていました。沈む夕日をバックにカメラを向けました。
 逆光のモミジも美しいですね。
11月28日(月)

     林源常氏
           聞こう会の報告

 昨日PM1:30~11月度の聞こう会が、山の文化館2階談話室で行われました。講師は、元尾口村教育長の『林源常氏』で、演題は「白山曼荼羅の絵解き」でした。
 お話しは、氏のお若い頃深田久弥さんが尾口村の自宅に訪ねてこられたことから始まり、曼荼羅のお話しはもとより、白山開山の歴史や、真言密教から蓮如上人のことなど、詳しくお話しされました。また、加賀禅定道の再興の時のお話しは初めてお聞きすることでもあり愉しく聞かせていただきました。
 お話しは多岐にわたり、軽いユーモアをまじえたお話しは愉しく1時間30分があっというまに過ぎてゆきました。

 さて、12月度の「聞こう会」は、12月18日PM1:30~3:00・・・白山自然保護センターの『上馬康生氏』で、演題は「ライチョウから白山の自然を考える」・・・です。今話題の白山のライチョウの素晴らしいお話しがお聞きできると思います。ご期待下さい。
11月27日(日)

11月26日AM 越前市鬼ヶ岳より望む白山
            白山遠望

 昨日は素晴らしい快晴でした。記者は友人数人と福井県越前市(元、武生)の「鬼ヶ岳」に行ってきました。
 朝霧の中登って行くと、やがて雲海の上に出ました。雲の向こうに近くの「日野山」や越前の山々が浮かびあがり、その向こう遥かに、白山が、純白の衣をまとい神々しく聳えていました。
 思えば、養老元年、この山を開山されたのは、越前の僧『泰澄』でしたね。加賀の白山とよく云いますが、福井県の人達にとっては「越前の白山」でしょうね。福井県のどこでも、白山はよく眺められます。
 泰澄大師が「越智山」で、白山の神『十一面観世音菩薩」の招請により白山に向われたというお話しは真実をおびますね。

 さて、今日午後1:30~3:00・・・山の文化館聞こう会が行われます。演題は、白山のお話し「白山曼荼羅の絵解き」です。講師は元尾口村教育長の『林源常氏』です。
 白山の伝説や昔の登山道のことが聞けると愉しみにしています。聴講は無料ですのでどなた様もお気軽にお出で下さい。
11月25日(金)
 
 西庭の公孫樹       楓も色づく
            お知らせ

 山の文化館の大公孫樹の黄葉もほぼ落ちきりました。前庭の西の公孫樹はまだ黄葉をつけ頑張っています。カエデ(モミジ)は今からの感じで色づいてきました。
 平年では、大公孫樹とカエデ類の紅葉は同じころですのに、今年は、大公孫樹の方が少し早かったみたいですね。
 カエデはまだまだ見頃ですので、皆さんぜひ観にきて下さい。

 さて、明後日27日(日)山の文化館の「聞こう会」が行われます。講師は、元尾口村教育長の『林源常氏』で、演題は「白山曼荼羅の絵解き」です。古い白山加賀禅定道を描いた「曼荼羅」の詳しいお話しが聞けると思います。皆さん、ぜひお出で下さい。
 講演は午後1:30~3:00で、会場は、山の文化館2階談話室です。無料ですのでどなたもお気軽にお出で下さい。
11月24日(木)

 山の文化館の大公孫樹の梢・・・24日朝
         冬来る

 昨日から昨夜にかけ物凄い風でした。明け方には雷(雪おこし・鰤おこし・・・などと北陸では云います)も鳴り「アラレ(霰)」も落ちてきました。冬将軍到来です。昨日までかなり黄色く色づいていた大公孫樹の葉も、今朝は、写真のように、ほとんど落ちてしましました。寒空を梢は掻くように打ち振れています。

 いよいよ冬ですね。近山にも、もう雪が積もっているかも知れません。
 寒い寒いと嘆かず、まっ白な雪の山に行きましょう。子どものような純真な心にもどり・・・!
 さて、筆者の愛車も,雪の山道を走らすために今日は冬用タイヤにチェンジしましょうか!
11月23日(勤労感謝の日・水)

   純白の衣をまとった白山(11月22日)
         冬来たりなば

 今日は素晴らしい青空です。でも、天気予報では夕方から雨と言っています。
 昨日も素晴らしい天気で、白山が写真のように美しく眺められました。ついこの間までは黒っぽいところも見えましたが、もうほんとの白山です。

 昨日は、近くの山々も白くなっていました。江沼の盟主大日山(1368m)も僅かに白くなり、やがて里にも雪が来ることを告げていました。
11月20日(日)

    黄葉散る
          黄葉散る

 今日は朝から時雨もようの日になりました。銀杏(ギンナン)も落ちきり、黄色くなった葉が、風に吹かれてチラチラと落ちてきます。
 しばらくは掃除せずに落葉の絨毯にしたいと思っています。今日は天気が悪いですが、近いうちにぜひ観にきて下さい。
 昨日は少し暖かでしたが、今日は寒くなりそうです。筆者もちょっと鼻がグズグズし、くしゃみが出そうです。皆さん風邪には気をつけお過ごし下さい。

 来週の日曜日は、27日は山の文化館の月一回の「聞こう会」です。
 今回は『林源常氏』の「白山曼荼羅の絵解き」です。午後1:30~3:00です。ぜひお出でください。
11月19日(土)

  山の文化館 ウッドデッキのギンナン
         最後のギンナン

 山の文化館大公孫樹の実、ギンナンも、昨日・昨夜の大風でほぼ落ち切りました。
 朝、門を開けましたら、写真のようにウッドデッキの上などいっぱいにギンナンが落ちていました。見上げると、梢の枝にはむうほとんど実は見えません。
 これから、黄葉が色付き、チラチラと舞い落ちてきます。
 山の文化館の公孫樹の黄葉と明治の建物のコラボを観にきてくださいね。
11月18日(金)

    少し雪をまとった白山
           秋深し

 昨日大聖寺河畔から、白山を望みました。ちょっともやっていましたが、白い雪を少しまとって綺麗でした。

 さて、昨日夕方の「テレビ金沢のとなりのテレ金ちゃん」と今日の「北國新聞朝刊の1面」に大きく山の文化館の公孫樹の黄葉が報道されました。これから数日が黄葉のみごろです。皆さんこぞっつてお出で下さい。
 
 また、深田久弥さんの展示品や、今好評開催中の「白山曼荼羅展」もごらん下さい。
11月17日(木)

 山の文化館 大公孫樹
              公孫樹の季節

 お早うございます。昨夜は雨でしたが、今日は素晴らしい青空です。山の文化館の推定樹齢650年と云われる大公孫樹も、青空に黄色い葉をきらめかせています。
 3.8mの幹から上を見あげると、写真のように素晴らしい景観です。

 この公孫樹は、気根(きこん)というものが、太枝や幹からたれさがっています。俗に「乳公孫樹(ちちいちょう)」と呼ばれています。気根とは何でしょうね?ものの本によると、公孫樹はおよそ1億年あまり昔の「中世代」から生きてきた木だそうで、中世代には「空気」が薄く、木根は空気の取り入れ口だったとも云われます。亜熱帯のマングロープの仲間には、この気根がありますが、その機能は、「木を支える」「新しい木になる」そして「空気の取り入れ」があるそうです。公孫樹の場合1億年前は機能していたのですが、今は以前のDNAが残っている木だけに出るとのことです。恐竜の走りまわっていた1億年の昔から頑張ってきた木なんですね。
11月14日(月)

     今日の山の文化館の公孫樹
           山の文化館 公孫樹色づく

 秋たけなわ、山の文化館の公孫樹も黄色の色が濃くなってきました。
 写真のように鮮やかです。
 今、ギンナンはほぼ落ち切りました。いよいよ黄葉の季節です。皆さんカメラを持って撮影にきて下さいね。

 
11月13日(日)

     ヒドリガモ
             冬鳥の季節

 秋も深まり、北の国から旅の鳥たちがやってきます。
 昨日大聖寺川畔を散歩していましたら、ちょっと珍しい鴨が水面に浮かんでいました。たぶんヒドリガモだと思います。中型の鴨で、雄の前頭部が黄色く、頭部から首にかけ、写真のように赤っぽい色が特徴です。
 これから大型のコハクチョウやガンをはじめ多くの水どりに会えます。愉しみですね。
11月11日(金)

    虹につつまれた月
         虹の お月さま

 昨夜、月を眺めていましたら、まわりが虹のような輪で包まれていました。
彩雲の一種だと思われますが、美しいのですけど、ちょっと不気味にも見えます。
 この現象は、悪天の前兆になることが多いのですが、やはり今日は雨でした。
 山の文化館は、いよいよ公孫樹の葉が黄色くなりつつあります。ここ5日くらいあとにはきれいに色づくでしょうね。
11月10日(木)
      
    登山前・・・栢野の大杉から力をもらう

     富士写ヶ岳山頂・・・で
         富士写ヶ岳登山

 11月6日、深田久弥没後40年、記念講演会でお話し戴きました『田部井淳子さん』は、深田久弥を愛する会の会員の案内で「富士写ヶ岳」に登りました。
 深田久弥さんは11歳のとき、大聖寺学生会のメンバーに伴われ登った初めての登山がこの「富士写ヶ岳」でした。
 今回は、あいにくの雨模様でしたが、晩秋の樹々の美しさに見とれながらのんびり行きました。コースは「大内登山道」下りは「我谷登山道」でした。
]
11月7日(月)

     お話しなされる田部井さん
         田部井淳子さんの講演会が行われました。

 昨日、6日、深田久弥没後40年記念講演会は、1975年にエベレスト世界の女性初登頂、セブンサミット世界女性初登頂などの輝かしい記録をもたれる『田部井淳子さん』をお迎えし「世界の山々をめざして」という演題でお話し戴きました。会場の大聖寺地区会館は、約350名の方々がおいでになり、大盛況でした。
 お話しは、まず、1970年アンナプルナⅢ峰を目指すとき、『深田久弥さん』にお世話になったことから始まり、NHKで『内多アナウンサー』と北アルプス全山縦走された時の事、エベレストのこと、南極のこと、東北の震災に支援登山したこと、などなど盛り沢山のお話しでした。後半には、素晴らしいプロジェクター映像もありました。
11月5日(土)

  イヌホオズキ(ナス科)
        晩秋の野にて

 昨日も田んぼ道を歩きました。川畔の土手に写真のような花が咲いていました。
 イヌホオズキ(犬酸漿)です。人は自分たちに役立たないものを、キツネとかカラスとかイヌ・・・なんて名付けたりしています。ちょっと可愛そうですが、植物にとっては人間が付ける名なんてどうでもいいかもしれません。
 まあ、犬の酸漿という意味です。正確にわかりませんが、かなり遠い時代に、外国から来た帰化植物らしです。ナス科ですので、ナスと同じような花の形です。黒い実がなりますが食べられるか分かりません。ナス科には有毒植物も有ります。
11月4日(金)

   ヨメナ(キク科)
         晩秋の野にて

 このところ暖かい日が続いていますね。どこかで夏日と報じていました。 
 さて、近くの河畔を歩いていましたら、白い花を見つけました。ヨメナです。ああ、ノギク(野菊)といったほうがいいですね。
 「野菊の墓」なんて小説を昔読みました。『伊藤左千夫』の作品だったと思います。悲しい悲恋物語でした。
 ヨメナ(嫁菜)でしょうか。嫁に食べさせる菜という意味ですね。「嫁いびり」を想像させますが、春この若葉は美味しいそうです。「こんな美味しい菜は嫁にたべさせたい」・・・の意味だったかもしれません。とにかく清楚な美しい花ですね。
 
11月3日(文化の日)

 アキノキリンソウ(キク科)
           お知らせ

 今度の日曜日、11月6日PM2:00~3:30・・深田久弥没後40年記念講演会が行われます。講師は『田部井淳子さん』です。田部井さんは1975年、女性として初めて世界最高峰エベレストに登頂された方です。その後世界7大陸最高峰登頂もなされ、現在世界の全ての国の最高峰登頂をめざしたり、多くの山を愛する活動を続けられておられます。深田久弥さんとは1970年の初めてのヒマラヤ、アンナプルナ3峰の時、からお付き合いがあったとお聞きしました。素晴らしい講演会になると思います。ぜひお出で下さい。なお、会場は大聖寺地区会館です。入場は無料です。



 アキノキリンソウ・・・・晩秋を彩る里山の花です。
11月2日(水)

   ミゾソバ(タデ科)
       秋のいろ

 昨日は、山の文化館の休館日でした。加賀市中央公園にウオーキングに行きました。花は、セイタカアワダチソウ、ブタナ・・・など帰化植物ばかり・・・菖蒲園跡の水辺で、見つけました秋の花。「ミゾソバ」です。なあんだ雑草か・・・なんて言わないで下さい。良く見ると、なんと可憐な花ではありませんか。
 昔、筆者の育った処は稲作の田園地帯でした。田に水を引く用水の畔に、この草が多く生えていました。牛が喜んで食べるので、鎌で刈ってきましたね。懐かしい秋の花です。
10月31日(月)

     10月30日12:05 姥ケ岳山頂にて
        姥ケ岳登頂 ばんざーい

 昨日、深田久弥山の文化館を支える「深田久弥を愛する会」の秋の登山が行われました。目的の山は「姥ヶ岳 1453.6m」です。あいにくの雨もようでしたが、計画では20人でしたが、厳選されたつわもの達13名は、雨にも負けず、風にも秋の寒さにも負けず・・・」頑張って無事福井の秘境「姥ヶ岳」に立ちました。
 途中紅葉も素晴らしく、平家平のブナの美しさに感動しつつの登りでした。下山後は、もちろん越前の秘湯で汗を流しましたよ。
10月30日(日)

   ホトトギス(ユリ科)
       山の文化館の庭の花

 秋です。山の文化館の庭にも、秋の花が咲いています。このホトトギスはたぶん園芸品種だと思いますが、近くの里山には9月から10月にかけて「ヤマジノホトトギス」などが咲きます。秋の花を代表する一つですね

 さて、今日は朝から小雨模様です。しかし、この館を支える「深田久弥を愛する会」の秋の登山の日でした。
 朝からの雨にも負けず、約20人のつわものは、福井県の真名川上流の「姥ケ岳」に向いました。
 姥とは、山姥でしょうか、標高1453.6mの中級の山です。登山路は危険な処は無く、登山としては初心者コースです。途中の平家平の辺りが良いですね。
 事故もなく無事で、愉しい登山になる様祈っています。
10月29日(土)

  ススキ 輝く
        晩秋の野

 昨日夕方、近くの加賀市三谷地区の農道を散歩しました。遥かに、深田久弥さんが生まれて初めての登山「富士写ヶ岳」に向って三谷川に沿って行くと、ススキの穂が、夕日に輝いていました。
 ススキは尾花と云い、秋の七草の一つです。十五夜の月とも似合いますが、夕日とも合いますね。

 秋深し・・・・・筆者の家の夕食には「サンマ」が出ました。


 



もくじページにもどる